医聖 永田徳本先生
永田徳本(ながた とくほん)は戦国時代から江戸時代初期にかけての名医。薬草に長け、医聖と称された。
牛にまたがり「一服十八文」と書いた薬袋を首から下げて診察して周り、貧しい人々に無料で薬を与えたり、安価で診療を行ったとされる。
伝説的要素が多く、生没年もその域を出ないが、記録によれば享年118 歳という驚異的な長寿であった。
徳本は三河国大浜(現在の愛知県碧南市)に生まれ、少年期には僧の残夢に学問を仰ぎ、後に月湖道人、玉鼎、田代三喜などから医術を学ぶ。『傷寒論』(漢の医学書、現在の日本の漢方医学の元となる)を信奉し、独自の処方を研究した。
医術を修めると徳本は諸国を遊歴、後に甲斐に招かれ武田信虎・信玄父子の侍医となる。信虎の追放後は諏訪郡東堀村に移り、御子柴家に滞在、その娘と結婚し一子をもうける。諏訪で過ごした40年余りは徳本にとっての円熟期といえる。
武田氏が滅び、信長が諏訪に兵を進めると、間もなく徳本は諏訪を去る。そして晩年再び東堀村に住みその生涯を閉じた。現在も岡谷市の尼堂墓地には徳本の藍塔「らんとう(墓)」が残る。